時々あなたに触れることができる

 

私は

 

知っている

私の祖父の名前を,

私の祖父がある半島で生まれたことを,

それが、戦争が始まる少し前だったことを,

その半島にあった国家が海の向こうの帝国に併合され,

その半島にあった文化が侵略されたことを,

 

知っている

それまでその半島では

子どもたちは隣の帝国の言葉を知らなかったことを,

キンパという食べ物を知らなかったことを,

お金の名前がウォンではなかったことを,

 

知っている

その文化が

パンソリと呼ばれる音楽と物語がひとつになった芸能を持っていたことを,

アリランという歌を持っていたことを,

チマ・チョゴリという衣装を持っていたことを,

 

知らない

パンソリの太鼓がどれくらい遠くの空気を震わせたかを,

アリランがどんなふうに涙を誘ったかを,

チマ・チョゴリの裾がどのようにその涙を拭ったのかを,

 

知らない

その文化が

どのような神を持っていたかを,

どのような英雄を持っていたかを,

どのような怪物を持っていたかを,

 

知らない

その半島のどこかの街の

夕焼けがどのように燃えていたかを,

雨上がりの地面がどんな匂いだったかを,

誰かの家に差し込む陽光がどんな柔らかさだったかを,

戸入れた洗濯物がどんなに優しかったかを,

 

知らない

若者がどんな文句で恋人に口説かれたかを,

友人がどんな言葉でその若者を茶化したかを,

父親がどんな姿勢でその恋人に難色を示したかを,

恋人が死んだ時、その若者の涙がどのように流れたかを,

 

知っている

戦争が終わってから祖父が海の向こうの隣国に“帰った”ことを,

彼には半島の言葉が話せなかったことを,

それでも、彼には半島の言葉を聞き取ることができたことを,

彼が、酷い言葉を半島の言葉で聞いたことを,

彼が覚えていたことを、帝国が半島に住む人々に酷い仕打ちをしたと,

 

知っている

その文化のあった場所に今ある文化が

ずっとその戦争を覚えていることを,

ずっとパンソリを覚えていることを,

ずっとアリランを覚えていることを,

 

知っている

ある半島で

若者が恋人に口説いたことを,

友人がその若者を茶化したことを,

父親がその恋人に難色を示したことを,

恋人が死んだ時、その若者が涙を流したことを,

 

知っている

その半島のどこかの街の

夕焼けが燃えていたことを,

雨上がりの地面が匂いたったことを,

誰かの家に差し込む陽光が柔らかかったことを,

戸入れた洗濯物が優しかったことを

 

 


 

 

補筆

 

文化とはなんだろうか。学問分野によって定義には多少の相違があるものの、一般的には人が社会の中で習得して、また共有して、そして伝達する様式の総体のことを指すだろう。

 

では、文化はいくつあるのだろうか。約190?違うだろう。文化や社会が国家とちょうど同じだけあると考えるほど我々は愚かではない。では民族の数?それも違うだろう。民族は文化的特徴を基準として分けられるが、それは文化や社会がちょうど民族のぶんだけあることを意味しない。

 

では仮に、どんな些細な社会も含めて、すべての社会の数が分かったとしよう。それでも、人類が目撃した文化をすべてあげるには不十分だ。なぜなら、一般的に、江戸時代の文化と現代の文化は区別されるからだ。明治の文化と現代の文化は異なるだろうか。異なるだろう。あるいは、10年前と現在ではどうだろうか。異なるかもしれない。では、1ヶ月前と現在とでは?1時間前と現在とでは?

 

―つまり、文化の自己同一性とはどこにあるのだろうか?

―そして、何らかの自己同一性がいくつもの文化の間に境界を敷いた時、我々は他の文化の何を知ることができて、何を知ることができないのだろうか?