喫茶にまつわる二篇の雑記

2023.11.18

友達がおおいね、

 

と人に言われることが多い。

そのたびに謙遜ではなく

「そんなことない」

 

と決まったセリフを取り出す私は、

わりとその言葉を信じている。

 

そして目の前のその人がその言葉を吐く理由に対して
割と冷たい気持ちをもったまま、

あたたかい言葉を吐く自分がいる。

 

初対面の人と話すのは気軽で。
それは初対面の人と話す練習の場所が

私の人生には多くあったおかげだと思うし、

どうしようもないミスを山のようにしてきたことは、
誰も知らないし、知らないで欲しいし、

今もミスをしつづけている。

 

わたしが友達と思っている人に、

 

言葉で、「私たちは友達なのだろうか?」
と聞くのは野暮だし、またそんな質問を
私が難なくできる相手は、この人にどう思われてもいい、

という感情か、

言葉以外の場所でその人のことを信じているからのように思う。

 

言葉なんてモノで区切られてしまうことは

何て不自由なんだろうと思う。

 

お茶に行く約束をする。
駅で集合する。

他愛もない会話をするために足がだるくても立ち話をする。

 

そういうことが友達という言葉ではないところで、
わたしが誰かを信じる材料になっているのは

確かだったりする。

 

喫茶店が好きなのも、ほとんどいつも開けていて、
いつ行っても受け入れてくれる安心感に金を落としている。

 

でも継続的に人と話して関係性を築くのが

いまもかなり苦手で、
学校なんてものは、行ってる間は言葉にしなかったけど、
わたしはとても苦手だった。

 

一つのミスも許されない関係性を意識すると

その人が特別苦手になってしまったりする。
その人のどこかで、0点以下の自分を見るたびに、
どうやって人と話していいのかわからなくなる。

 

ただ、わたしによくしてくれている様々なひとたちとの関係と
私は友達が極端に少ないという自認は共存していて。

 

わたしと連絡をとってくれる人たちはいい人たちだな、
とほんとうに心から思う。

 

誰と誰を合わせても恥ずかしくない人ばかりだと思う。

 

私が仲良くなればなるほど、
そのひとたちは私にあまり連絡をしてこないけれど、

誘ったらほとんど、いや必ず乗ってくれる。

 

ただ会うとひたすらにたのしい。ひたすらに
というのをわたしは心地よく感じているし、

 

距離をうまくとってくれる人、
放っておいてくれるひとがすきといえば、
その言葉に尽きるのかもしれない。

 

 

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身体をうまく動かせない日々が続いている。

 

どうしたものかと、部屋を少しずつ片付ける。
片付けは苦手、レシート一枚分の過去すら私には荷が重い

 

座った席、食べたもの、だれと、
その季節の前後を、音が、車の音、タイヤ、白線。
人混み、だれかの笑い声、悲鳴。

 

目を逸らしても、止まらない情景を洗い流す術を

まだ知らない。

 

ずっとこうかよ、写真機が足らない。

 

足下にたまった写真を整理する気持ちがない、
どうかこのまま葬られますように。

 

誰にも見せることができないままの写真は、

だれにも本心をうまく言えない自分のようで笑えない。

 

ずっと自分のことがあまり好きではないこと、
お風呂で身体を洗うのが苦手なこと、

 

化粧をすることで、なぜか人前に出れる価値が
つくことに辟易する。

 

脱毛の広告、誰の基準なんだ。
たしかに、陶器のテクスチャは美しいが、
釉薬によっても違うじゃないか、

 

心の中で毒づくことは、ほとんど外出しない。

 

自分の身体をうまく大事にできないことを
誰にも大事にされたことがないという

捏造のロマンスで支えている貧しさ。

 

ただ手のひらに落ちなかった部分を
自分がそこに神経を通さなかった、だけ

 

あなたの目を見て話すということを渇望している。
抉るような沸点で焼いて欲しい。

 

サシで誘うのは、ホテルではない。
みな、秘密や、セックスには興味があるのに、
自分の、他者の考え事には興味がないのか?くだらない。

 

ただ机と椅子、あたたかい飲み物、時間

 

それがあれば、人といるには十分なことで、
ただわたしはあなた(u=everyone)の話を聞きたい。

 

孵化する前の、不確かな言葉で。

 

231118 02:46